近年、ウィリアム・シェイクスピアの『リア王』の上演があいつぎ、私たちの心に刺さる現代的な解釈が評判を呼んでいます。
親子のすれ違い、老いへの不安、権力の危うさ――。400年以上前に書かれた物語が私たちの胸を打つのは、その問いが決して過去のものではないからでしょう。
イギリス演劇の研究者・米谷郁子先生にその魅力の真髄を伺います。今回は【後編】をお届けします。
なにをしてほしいの?わかり合えない切なさ
シェイクスピアによって『リア王』が書かれる以前の17世紀初頭、作者不詳の『リア王実録年代記』というお芝居がありました。これは、ラストでリア王が復位するというストーリー。
「ところが、シェイクスピアの『リア王』では、一転して救いのない悲劇になっています。失意と狂気のなか、コーディーリアと再会したリアは自分がなにを求めているのかさえわからなくなっていて、コーディーリアもリアの望みがわからず、愛する父親を救う術を見つけられない。途方にくれている親の望みを理解できない切なさ。
人生の終盤に差しかかった親と、その様子を見守るしかない子どもの姿は、介護や看取りを経験した方なら、ご自身の経験と重なるところがあるかもしれません」
そのあまりに過酷な結末のため、17世紀後半には詩人ネイハム・テイトが、リア王が生き延び、コーディーリアとエドガーが結ばれるハッピーエンドの戯曲に書き換えました。この改作版は長く人気を集め、19世紀ころまでは『リア王』といえばテイト版が上演されていたそうです。
「人々が《家族》や《老い》をどう見つめてきたのかということを、『リア王』の上演史そのものが映し出しているようです。無一文の老年という極まった境遇から、あらためて世界を見つめ返してみようとするリア。その物語に向き合おうとする時代が、いまなのかもしれません」
米谷先生は、道化の存在も『リア王』を読み解く鍵になると言います。なかでも象徴的なのが、コーディーリアと道化の関係。2024年藤田俊太郎さん演出『リア王の悲劇』や、今年9月上演の森新太郎さん演出では、コーディーリアと道化を同じ俳優が演じる配役です。
「戯曲では、コーディーリアと道化が同時に登場する場面はなく、コーディーリアが追放されると入れ替わるように、舞台に道化が現れる。そのため昔から同じ俳優が二役を演じる演出も行われてきました。両者に共通するのは、権力者であるリアに対して唯一、臆することなく真実を語る存在であるところです」
コーディーリアは、父への追従を「Nothing(=なにも)」と語らず、道化は冗談や歌を通して王の過ちを鋭く風刺します。
「どちらもリアを傷つけるためではなく、愛情から発している言葉です。リアがコーディーリアの死を嘆く場面で口にする『阿呆(※)め、締め殺されたぞ』という台詞は、両者がリアの心の中で重なり合う存在であったことを示唆しています」
リア王と道化の距離感も、さまざまな形が試みられています。
「2024年ショーン・ホームズさん演出では、平田敦子さんがリアに寄り添うやさしい道化を演じ、2025年フィリップ・ブリーンさん演出の勝村政信さんの道化は大竹しのぶさん演じるリアと漫才を思わせる掛け合いを見せ、相棒のような存在として舞台の中心に立ちました」
※ 阿呆=fool foolには道化という意味もある。



